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たのしいモクシ録

「好きに生きたい」とは本当に贅沢なのだろうか

「好きに生きたい」とは本当に贅沢なのだろうか

前提①:これは自分の思考整理の目的で書き記す記事であって、他者に向けたものではありません。でも、他者が見ても良いようには書いています。

前提②:論文ではありません。そのため、論理は時に同一記事内で矛盾し、相克し、錯綜します。根拠は時に客観的再現性を持ちません。しかし結果として、なにか真実により近いものを捉えることができれば良いと考えています。言葉はあくまでもツールです。真実を捉えるために、何の制限もあってはなりません。

前提③:所詮単なる若造の戯言です!

 

はじめに

基本的にわたくしmannaは紙のノートで思考整理をします。でも、インターネットで公開されるブログ記事という形でまとめる場合は次のようなことを意識していたりします。

・他者が見た時にも、その人に何らかの影響を与えられる可能性があること。

・ある程度の客観性を保ちつつ書くこと。他者視点を意識して書くことで、いつもの思考回路に風をいれるように。

 (前提をいきなり覆すようですが、全ての命題は常にアンチテーゼを内包しているのであります云々言い訳)

 

最初に結論を述べておきます。

自分の人生、好きなことをして生きていたい。しかし、思い通りにいくほど世の中は甘くない。だからといって、好きに生きようとすることは罪ではない。なぜなら……

好きなことをして生きようが、嫌いなことを強制される生き方を選ぼうが、同程度の大変さを味わうことになるから。どっちの道を選ぼうが、変わりない。

それよりも、この世界を生きる主体としての「私」がどれだけ色んなことに気がつく性格なのか。それが生の大変さに影響する。気がついちゃう人ほど、大変です。そして、マイノリティに属する人は、そういう人が多い傾向にある。

そもそも、この世に存在する時点で、好きには生きられない。なぜなら……

この世の本質が動的なものであり、ひとつの主体の理想が、他の主体によって邪魔をされてしまう運命にあるから。

以上をこの記事の中で話します。

 

本題

「自分の人生、好きなことをして生きていたい!」

「やりたくないことを強制されるなんてゴメンだ!」

「不条理なことが大嫌いだ!」

「私は周りに合わせるのが苦手なんです!」

「ゆっくりのんびり生きていたいのだ!競争は嫌いだ!」

「心の底から働きたくない」

こういう言葉を心の中で叫んでいる人は、マイノリティの側でしょう。でも確かに一定数おられるように感じます。わたくしはこっちの人間です。

 

我々のこの一心不乱な気持ちは、次のような言葉によって迫害されうる脆弱性を持っています。

 

「思い通りにいくほど世の中は甘くないよ。そんな贅沢は金持ちになってから言いな」

「やりたくないことをやるのが、仕事だ」

「若いね」

「そんなことを言って食っていけると思うのかい」

「私だってそうありたいよ。みんな好きでやってんじゃないんだよ」

「働くのも悪いことじゃあないよ」

「好きに生きたいなどというのは、今まで何の苦労もなく甘やかされて育ってきた世代が言う甘えごとであって、苦労して汗水垂らして働いている人に失礼だ」

 

これらの言葉は、親や、親戚や、先生や、友達といった、裏切りたくない人たちから向けられることもあります。彼らに悪気はありません。しかしながら、その場合、我々は苦しみます。自分自身の素直な気持ちと、社会的な体裁を保ちたいといういたいけな気持ちとの間で<苦しみ>がじわりと生み出されるのでありましょう……。

 

 

ひとまず、記事のタイトルに1つの回答を与えます。

好きに生きることは「贅沢」です。しかし、「贅沢」にも対価があります。「贅沢」をするにはそれ相応の大変さも付きまとうはずです。それはもはや、「贅沢」とは言えません。

 

少数派が、主張を通そうとする時、必ずと行っていいほど、世の常識と戦闘することになります。その戦闘は過酷なものです。肉体的にも、精神的にもダメージを免れることはできないでしょう。

一方で、世の常識や大河に身を委ねる時――少なくともそれが無難にこなせる人間にとっては――そこで余計な戦闘を行う必要は免除されます。しかしながら、(やはり)、そこで免除された分の対価はどこかで支払っている蓋然性は十二分にあるのです。

 

「贅沢か、どうか」などという問題は、この際単なる言葉遊びに過ぎません。結局、どの道をゆくにも、それなりの試練があるのですから。

まずここで、「好きなことをするのは贅沢だからダメ」という言葉は意味を失いました。

なぜなら、「好きなことをするにせよ、嫌いなことを強制されるにせよ、その人が結果的に受け取る苦しみはだいたい同程度である」からです。その根拠は、しっかりとはまだ述べていませんが、とりあえずここでは、わたくしの経験値から勝手に。

 

 

納得されない場合は、仮にそうだとして、話を進めてもらえると有り難いです。

 

次に問題となってくるのは、この世界の主人公たる自分が、どれだけセンシティブかどうかです。どれだけ、この世の物事に敏感かどうか。どれだけ多くのものを見ているかどうか。その量が多ければ多いほど、その人が生きる時間は膨大なものとなります。

平坦な言い方をすれば、色んなことに気がついてしまう人は、何をしても大変。

 

つまり、好きに生きようが、自分を殺して生きようが、生の苦しみの大きさには変わりないということです。そうではなくて、生きてゆく大変さというのは、それを生きる本人の性格に由来しているものなのだという仮定がここに存在します。同じものを見ていても、人によって受け取るものの量が違いますよね。その絶対量が多いほうが、辛さも悦びも多いと思えるのです。そして、私の経験上、マイノリティに属する人は、センシティブな人が多い気がします。それがマイノリティの生きづらさに影響しているのでしょう。

 

言葉が少ない気もしますが、一度、話を先に進めてしまいます。

 

では、究極的に、この「生の大変さ」とは何なのでしょうか。そこまで確かめないと、なんだか漫然としてしまう気がするのです。これ以上の追求が好きな人と嫌いな人とで分かれるポイントだと思うので、気にならない方は読み飛ばして結構です。

 

なにゆえ、生きるのは大変なりや?

わたくしの考えでは、それは、この世界の本質が動的なものであるから

この世界の本質が動的なものであるから。簡単に言えば、この世界は常に動いているから、ということです。

動くこと、それはほぼ同義として「衝突」を意味します。ものが2つあれば、そして2つが動くのであれば、その2つは衝突する運命を持っていると言えるでしょう。

現実、この世は無数の粒子で構成されています。2つどころではありません。人間にとって最も意味ある最小単位に置き換えても、同じことです。人間は沢山おります。しかも増えています。

そして、この宇宙自体が常にインフレーションを続け膨張しており、且つ、一つ一つの粒子は自ら動いているのです。この玉響の瞬間に様々な存在同士による衝突は恐ろしい数字となってあちこちで発生しているに違いありません。

「衝突」は、すなわち「変化」を生みます。その「変化」こそが、我々の、いや私の、そしてあなたの、「好きに生きたい」という気持ちを踏み潰す巨人の足の実体なのではないでしょうか。

 

この考えに至るインスピレイションは先日、わたくしの部屋の壁に現れた1匹のメスのアダンソンハエトリグモを観察している時に起こりました。この話題はひどく卑近ですから、軽く読み飛ばしてください。

というのも、そのアダンソンハエトリグモは獲物を捉えてじっとそれの体液を吸っている場面だったのです。彼女にとって、その行為は、生きるための本能的行為であり、生物的な「快」の状態にあったに違いありません。その状態は人間に置き換えて言うならば、「好きなことをしている時」ということでしょうか。

さてして、私はその様子をそっと見ておりました。極力、邪魔をしないように、気をつけていました。ところが、それでも私の存在はその蜘蛛にとっては脅威的な存在だったに違いありません。捕食者らしい態度で、獲物を離すまいとしつつも、私がほんの少し筋肉の疲労に耐えかねて全身を震わした時、蜘蛛は獲物を置いて置物の陰に隠れてしまったのです。

私はその時、悪いことをしたと思いました。蜘蛛にとって、まだ、獲物は吸えたのに、それを途中で諦めさせてしまったからです。

そして、こういうことがこの世界には溢れているのだと、同時に悟ったのです――悟った、というほど大げさな気付きではないにせよ――この蜘蛛を主体とした場合に、彼女の<「快」から「不快」>への変化を及ぼしたのは、この世界の主人公たる蜘蛛以外の存在が動いているという事実であることは確実です。人間的な視点から言えば、この私mannaが、蜘蛛の食事を邪魔した、と。(屁理屈的ですが私を動かしたのは、筋肉とか、乳酸とか、別の動く主体です。これを辿ってしまうとキリがありません)

もし仮に、蜘蛛以外の存在は静かに不動であれば、彼女は心ゆくまで獲物を嗜むことができたに違いありません。その場合、この時の流れすらも止まっているのですから。

以上たとえ話でした。論旨を戻します。

 

ひとつの主体の理想が、他の主体によって邪魔をされてしまうのは、この世の本質が動的なものだから。

この世というフィールドは、一人の為だけにあるわけではないようです。すべての主人公のために、用意されています。すべての主体のために存在しています。それゆえ、主人公はその他の主人公との衝突を免れないのです。そしてこのことこそが、「好きなことを続けられない」根本理由だと、わたくしは考えています。

 

ここらで、一旦すべての話を繋げてみます。納得するのに十分なワードは出揃っているはずです。ここで最初の結論に到達します。

 

結論的なテクストその1

自分の人生、好きなことをして生きていたい。しかし、思い通りにいくほど世の中は甘くない。だからといって、好きに生きようとすることは罪ではない。なぜなら……

好きなことをして生きようが、嫌いなことを強制される生き方を選ぼうが、同程度の大変さを味わうことになるから。どっちの道を選ぼうが、変わりない。

それよりも、この世界を生きる主体としての「私」がどれだけ色んなことに気がつく性格なのか。それが生の大変さに影響する。そして、マイノリティに属する人は、そういう人が多い傾向にある。

そもそも、この世に存在する時点で、好きには生きられない。なぜなら……

この世の本質が動的なものであり、ひとつの主体の理想が、他の主体によって邪魔をされてしまう運命にあるから。

 

 

……とまあ、ここまでが事実確認です。事実確認だけなんて、不毛です。事実確認だけで終了する無駄な文章がとても多いですね。しっかりと現実を変えるところまでステップを進めないと勿体無いです。ということで……

 

結論的なテクストその2

・好きに生きたい方は、好きに生きてよい。それは贅沢ではない。

・どの道、苦しむので、苦しむ。それをどうこうしようなどというのが間違いですの。苦しみたくない人も、苦しむ。

・できるだけのんびり生きたい人は、人の少ないところに行く。人間、人との衝突が一番ストレスです。変化の少ない方へと逃げる。

 

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