MOXYLOQ

たのしいモクシ録

8500日と30600日の人生

 私は2018年現在23歳である。数年前から毎日生存日数を数えて日記に記しているのだが、この間8500日をまたいだ。8500日という数を見て、最初に思ったことは、私のすべてがこの中にあると思うと割に少ない日数だ、ということだ。

 私の記憶にあるすべての記憶が、この8500日のどこかに収まると考えると意外だった。8500日、毎日その日のハイライトを写真に撮ったとしたら8500枚の写真が残る。8500枚の写真といえば膨大な数のようでいて、案外1日あれば全て見切れてしまう程度の枚数である。私の人生など、まだそれくらいのものなのだ。

 私自身としては、もう随分と長く生き延びてきたものだと思っているのだが、まだ8500日か。そのうち、この8500という数字を捉えるための感覚が麻痺してきて、一体それがどれくらいのものを示しているのか解らなくなってきた。

 

 祖母がいる。現在83歳である。日数計算をしてみたところ、約30600という数字が出てきた。三万である。

 

 私は、自分の8500日と祖母の30600日という2つを見て、この日数の違いに驚きながらも、同時に、これほどの違いがありながら、私と祖母との間に思考的な大差がないことに驚いていた。考えることが大して違いないのだ。物事に対する反応も変わりがない。私の関心は、この「違いが無い」ということに向いていた。

 

 その、これまで、私はこういうふうに考えていた。つまり、齢を取れば取るほど、その人物の内面世界は成熟してゆき、思考は深まり、いかなる物事にも動じず、精神の安寧を手に入れるようになるものだ、と。だが、それは神話だったようだ。

 

 よく街角で怒っている老人を見る。そういえば、そういう哀れな人間がいる。私の祖母はそういう問題こそないけれど、人間的に成熟しているとは言い難い。いうなれば、現実を普通の感覚で生きている普通の人である。

 

 人間は、年齢を追う毎に精神が成熟するわけではないのかもしれない。もしかすると、大きく成長するのは0歳から7歳くらいまでの間だけで、それ以降は実はあんまり変化しないのかもしれない。そう考えてみると、たしかに、今の「いい大人」たちがしていることって、小学一年生がしていることと大差ない気がする。電車の中で聞く大人たちの会話のレベルは、どう考えても小学生レベルだ。実は、老人たちの会話もきっと、小学生レベルなのだろう。

 

 ここで、こう結論付けることができそうだ。すなわち、精神レベルの深化は必ずしも歳を取ることによって成されるわけではないということ。逆に言えば、「老成」に年齢は関係ないということだ。

 

 弱冠にして仙人みたいな人物もあり得るわけだ。ランボーとか、石川啄木とか、若年の天才と言われる人はみなそういうことなのだろう。

 

 もっとも、もちろん、年齢によって変わる点もあるようだ。「若い時は……」とか「歳を取ると……」という言葉の後に続くようなことには、そういう年齢が大きく左右するような要素が関係しているのだろう。

 

と、ここまで一気に思考して、一息付く。

 

私は極限まで精神レベルを高めたいと、思った。